フィクションに求められるライン「フィクションライン」というもの。

 こんばんは。最近何かと忙しかったshokaです。

 いろいろと考えているうちに当初記事にと思っていた内容の旬が過ぎてしまいましたので大幅に内容をカット致しまして、今回の記事に致します。
 ごちゃごちゃした前書きはさっさと切り上げまして、本題に入りましょう。

 まずはタイトルに書いた「フィクションライン」という単語について軽く説明させいただきます。
 フィクションラインとは、脚本家・映画監督およびスクリプトドクターである三宅隆太氏がラジオ番組(TBSラジオ『ウィークエンドシャッフル』2009年8月9日放送)内で取り上げられた三宅氏による造語であり、私は

「リアリティの水準」とも言い換えられるようなものであり、フィクションラインが低いほど現実と地続きであると認識できる。

というように捉えています。
 もう少し詳しく述べれば、フィクションラインとは現実に存在している常識が通用する世界なのかどうか、どこまで現実的な描写がおこなわれるべきであるのか、というような水準であって、作品内の描写により暗黙的に享受者の裡に設定されるものではないかと思っています。
 私はそのラインを超越した描写・演出が見られると無視できない違和感を覚えることが多いです。

 また、フィクションラインは様々な要素によって形成されるもののようです。例えば番組内では心霊ホラーにおけるフィクションラインの重要性に触れ、演出や撮影法においても幽霊との遭遇まではあまり突飛なことはしない、言わばフィクションラインは下げておくように注意をするべきであるというニュアンスのことが話されていました。
 これは制作側の意識的誘導によって無意識的に享受側に設定させる、という技術の話だと理解しています。

(長いので続く──

──続き)



 さて、フィクションラインについて様々考えるうちにひとつの似たようなラインの概念を自分ルールで定義する必要が出てきました。それは名付けるならば「デフォルメライン」というようなもので、作品内描写のデフォルメ加減を示すものです。
 これは、どの程度までデフォルメされた描写を用いることが許されるかという、作品のテイストを決めるものであると考えられます。
 言い換えるならば作品全体を通して求められる描写の厳密さの水準であり、描写の信憑性を司る概念です。キャラクターの言動や演出によって、フィクションラインと同様に暗黙的に享受者の裡に設定されるものというイメージにより、対応させて「〜ライン」という単語を据えました。
 そしてやはりこのラインもフィクションラインと同様に、制作側が意図して設定するのであれば作品の演出上守っていかなければならない制約が発生する、謂わば「超えてはいけないライン」であると思うのです。

 具体的なお話をしないとどうにも理解しづらいように思えますので、喩え話で具体例を挙げますと。
 ギャグ作品において、殴られるなどした人がぽーんと数メートル以上飛ばされて、壁に激突して穴が開く、という描写があったとします。するとその事実はそのとき限りの認識をされてしまうわけです。つまり直後に何事もなかったかのように立ち上がって元気に会話に参加をしても壁に穴が開くほどの衝撃を受けたという描写は殴られたという事実を誇張(デフォルメ)したにすぎず、受け手は「殴られた」という事実のみを捉えて話を追うからだと思われます。
 フィクションの作品においてそのようなデフォルメを用いた演出に慣れているために、無意識のうちにそういうことが可能となるわけです。そして、そのような無意識のうちに設定される同意がフィクションラインであり、デフォルメラインであると言えましょう。
 ちなみにこの例ではデフォルメラインが高く、個々の描写の持つ信憑性が薄い印象を受ける作品ということになります。いちいち起こることを本気にしない、ということです。

 少しお話を変えまして、そのようなデフォルメラインを考えるに至った直接の描写のお話をしておきましょう。すなわち「フィクションラインの低いと思っていた作品内で急に認められた私の持つ常識からはかけ離れた言動」とかいうものです。
 フィクションラインは低い、すなわちこの世界にもしかしたらありそうな世界観設定だったのにもかかわらず、急にその水準にそぐわない言動をしだすキャラクターたち。それを見て私はフィクションラインとはまた違う、ギャグ作品なのか真面目な作品なのかを司るラインがあるのだな、と直観したのです(スピリチュアル()体験)。
 そして、以下のようなお話もそのときに考えました。

 特に精神活動全般におきましては、創作物内でも堅固に保存されているべきものだと無意識に考えているようで、おかしな言動を伴う描写が挿入されることはデフォルメラインの上昇に大きく寄与するように思います。これは享受者がニュートラルな状況で作品内に流れる常識は現実のそれと相違無いと考えることによって生じる現象であることが推測されます。
 さらに言えばこのことは人間の生得している能力的には極めて自然で、そもそも創作内のキャラクターを含めた他者を理解するためには他者の思考をシミュレーションする能力が必要不可欠であるという、所謂心理学でいうところの「共感」の話になるのだと思います。共感は感情移入の足掛かりにもなります。
 しかしながら、当然共感のできないようなキャラクターには感情移入ができず、ひいては作品全体の持つ信憑性を著しく損なうことになります。

 そういうわけで、私の当初持っていためだかボックスに対する印象は大きな修正を伴い、興味深くも苦痛を伴うアニメとなってしまったのでした。あ、具体的な作品名言ってしまった。


 さて、長くなって疲れてしまったので、最後にそのフィクションラインとデフォルメラインの関係について書いておきます。

 デフォルメラインの考えをまとめるに当たり、最初酷く混乱したのを覚えています。それは、今になって考えてみると当然のことで、なにしろふたつのラインは連動するらしいのですから本当にややこしいお話です。
 連動というのはデフォルメラインが上がってしまうとフィクションラインもつられて上がってしまうということです。

 フィクションラインの低い、すなわちストーリー重視のギャグ作品ではないお話に、デフォルメラインを上げてしまうようなおかしな描写、例えば実写では奇行の目立つ登場人物によるドタバタした展開が入ると途端に作品全体のフィクションラインが上がる、すなわち「現実にはこんな奴いないだろ」という印象が強くなり、ストーリー展開に説得力が生じづらいことになりかねないのではないか。という話です。

 意味がぶれてしまいますが、もう少し簡単に抽象的な対比をしますと

・フィクションライン(低⇔高として)
ノン・フィクション⇔フィクション
常識的にあり得る⇔あり得ない
この世のどこか⇔別世界のできごと

・デフォルメライン
シリアス⇔ギャグ
描写の厳密さ⇔適当さ
描写の信憑性高い⇔低い

とでも表現いたしましょうか。
 この表現は必ずしも正鵠を射ているものではないですが、理解の助けになるかな……とは思います。
 そして殊、精神的な事象に関しましては、非常識なことが起こるとデフォルメラインの上昇に大きく寄与することになりますよ、と。そういうまとめをしておきましょう。


 そんなこんなで、今日の私は自分でもよくまとまっていない話をしてしまいました……そのうち、修正が加えられる可能性は多々あります。

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shoka
大作戦企画部屋の一応管理人。
犬で眼鏡じゃない人。

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