夢オチ、とは。

 こんばんは。

 標記につきまして、最近ちょっと考えていたのです。と言いますのも、ちょっと前に何かの作品に触れたとき「ああ、適当に辻褄の合わないことを投げっぱなしにされるよりは、夢オチですって明示してくれた方が落ち着くものだなあ」と思ったのですが、先日『僕は友だちが少ない』(映画)を見た際には「やっぱり夢オチって難しいわ。適当にオチとして利用していいものじゃないわ」と思ったのでした。

 なんでそういう現象が起こるのかはさておき、「夢オチ」というものについて認識をしっかりと固めておきましょう。


 夢オチはちょっと前にはシナリオ展開上よくある展開であり、かつ「逃げ」であって、あまり好ましくないという認識だった印象があります。そして今になってはあまり目にも耳にもしなくなってしまったようにも思います。
 と言いますのも、昨今の作品を見ると、そのような機微を気にしている余裕がないとでも言いましょうか。とにかく、その辺りの変遷には明るくないので一から十まで印象になってしまうのですが、おそらく最近の需要の中心が、そういう「辻褄が合っているか、妥当か、説得力があるか」というような部分は重要視されず、別の要素──露骨に言えば即物的な心地好さ──に重きを置いたものになってきているのだと思うのです。

 裏を返せば、(今に対しての)昔は夢オチなんていう上がりきったハードルをぶち抜くようなとんでもない収め方をしてでも、物語や展開上の有限さのようなものを求めたのだと思うのです。
 まあ私はお話というものは一見理解しがたくても考えればしっかりと一応の説明がつくようなものであって、それを享受者に丸投げをしているわけではなく、そしてできればそれがスマートに(私の好みに合うような修飾要素を伴って)表現されているのが理想的であると考えているわけです。
 妥当で誠実で趣のある作品として、作品の方を自分に寄せていきたいですね(テクニカルターム)。


 話が大分逸れましたが、夢オチに対しては要するに妥当性の放棄であって、そこは判定不能になるのですね。でも負の数という扱いにはならないのだと一瞬思ったのです。それが冒頭の「投げっぱなし(妥当性において負の評価)よりは良い」だったのですね。でも実写はがないは夢オチの円熟期(?)に多用されたのであろう、どう考えても説明がつきっこないことの後に取って付ける卓袱台返し的なオチの形式だと感じたのです。そしてやっぱり「中庸の徳」が頭をよぎり、何事も限度があるのだなと思い直しました。
 夢オチは万能終末取り纏め機じゃないんですね。
 夢オチの理想的な程度はぎりぎりあるかないかのライン。言わばフィクションラインが発散しない程度なんだと思います。きっと私にはそこが一番効きます。



 そんなこんなで、今日の私は何も言えてない気がします。


キーワード:夢オチ、妥当性、フィクションラインの発散、誠実さ

バランスのお話。

 お久しぶりです。アニメ観たり寝たり起きたりしているshokaです。
 今回はそういった作品の享受に際しまして感じる苛々、不快感、所謂“やだみ”についての考察のひとつをまとめて記事にしてみます。

 そもそも最近の私は専らアニメーション形態の作品を享受しているのだというお話をしましたが、テレビ番組として放映されるアニメは基本的に環境さえあればほぼ無コストで享受できるものであって、クールごとに様々な作品が、言ってしまえば勝手に空から降ってくるかのように提供され、それを視聴するか否かは自由に選択できます。それゆえに、他の作品形態に比べて様々な種類の作品に触れることができるというわけです。

 そのような作品の中には当然、前述したやだみを感じるようなものも多々あります。
 あえてそのような負の感慨を得るために金銭を消費しようとは普通思わないかもしれませんが、アニメだとそういうこともしやすいですね。
 私は最も価値の低いものは何の感慨も得られないようなものであって、やだみを感じる作品というのはそれだけで尊いものだという考えを持っており、好きなものと同じぐらいに嫌い……とまでは言いませんが、やだみを含んだものにも興味があります。

 前置きがかなり長くなってしまいましたが、そんなやだみの考察において浮かび上がってきた私にとって苛々する作品の傾向として見出したもの──今回は“バランス”のお話をしたいと思います。


 長いので追記で。
(続く──

──続き)


 さて、大まかに簡潔な説明を先に書いておきますと、私の言うバランスとは「報い/報われ」のバランスのことです。
 そのような類のバランスの取れていない状態が私にとってやだみの一因となるらしいことがわかった、というのが結論になりましょうか。

 では早速具体的な説明に入っていきましょう。

 まず、やだみについて考えてみようということで私にとってやだみを感じる作品のその具体的な要素を挙げてみます。
 ひとつには普段から散々申し上げているようにメガネの存在がありますがそれはもうどう考えてもそうなのでスルーです。ほかにも先日の記事にいたしました各種ラインの私的な設定を超えた表現や、ご都合主義展開、悪人が甘やかされるような展開などにもやだみを感じます。
 ではそれらの要素はどのように享受されてやだみを生産するのでしょう。

 詳細な過程は割愛しますが、多くの要素において私が考える理想的な状態から乖離しているということに気がつきました。
 例えば、ご都合主義な展開の具体例として何か重大な局面において登場人物の命と事態の打開が選択される場面で様々な葛藤を経ながらもなんとか命を犠牲にしてその場を凌いだ、というような展開を考えます。
 お察しのとおり、ご都合主義展開では当然のように例外的な事象がはたらいてその犠牲になったはずの登場人物が生きていました。めでたしめでたし。というようなことになるわけです。許せませんね。
 ではどうなればいいのかと言えばそれこそ当然のように死んだままであればいいんです。当然死んでいるはずのキャラクターを変に生き返らせようとするものだから“例外的な事象”のような気持ちの悪い歪みを抱えることになるのです。そんなにキャラクターを殺すのが嫌ならそういう展開を作らなければいい。私はそう思います。
 すなわち、理想的な状態からの乖離とはこの場合、当然死んでいるべき登場人物が何故か生きていたという歪みのことと理解できます。

 同じようなことはキャラクターの些細な行動にも及びます。
 例えば、あるキャラクターが常軌を逸した非常識な行動をとったとします。すると当然、そのキャラクターは不利益を被るのが一般的な社会における道理であると思われますが、そうはならない場合が創作物上には多々あります。
 ではどうなればいいのかと言えば、それ相応の扱いを受ければいいわけです。創作物上でのそういった過剰に赦されている構図には筋の通っていない、言うなれば歪みのようなものを感じます。そしてそれは直接やだみに変換されます。

 つまり私は、不当に赦されていると感じられるキャラクターがいるとそこに歪みを見出してしまい、やだみを受けることになるので、かくあるべきという扱い、すなわち“報い”を受けることでバランスをとり、その歪みが矯正されることを望む気持ちがはたらくらしいのです。

 そのようなロジックによれば、理想的にはすべてが似たような作品になってしまって何も面白くないということも考え至るかもしれませんが、そうではありません。
 私は歪みを目の敵にしているのではなくて、最終的に歪みが解消されることなく放置されることにやだみを感じているのです。加えて、そのような歪みを湛えまくったような作品は大好きです。不当な利益を得ているような存在が報いを受ける展開とかメシウマの極みではありませんか。


 さて、ちなみにこの考察()の最中、逆は?と考え至って生まれたのが“報われ”の方面へのバランスでした。
 かわいそうなキャラクターがその不幸に見合った幸せを手に入れる展開はやはり素晴らしいです。しかしこちらはそれほど積極的に適用される考え方ではないようです。何故ならば、私には公式の設定を基本的には尊重するという持論があるからであり、加えてそもそも創作物に端から不利益な存在がメインに据えられてそのまま放置されるようなものが少ないから、ということもあるようです。
 二次創作においては焦点の当てられていないようなそういった不遇な部分に着目し、報われ展開を持ち出すことで正のバランスをとるようなものも多くあるのではないかと考えています(実感は籠っていない雑魚)。

 そしてさらに、そんな作品が世に溢れているというのであれば、やだみに振り回されて窮屈なことになっていてかわいそうだと自分でも思ったのですが、思い返せば存外そうでもないと感じました。
 まあこれも当然のことなのでしょうが、私の作品に対する嗜好もそう機械的な正負の演算によって定められているわけではないということです。そこを少し考えてみたりもしました。するとどうやら個別で見ればやだみを禁じ得ないような要素を孕んだ作品でも、その部分を選択的に無視する、“流す”技術というものを無意識に使っているらしいです。それにつきましても、いずれまとめられるといいですね。


そんなこんなで今日の私は日本語が上手く使えなくてまとめられない悲しみに暮れます。

フィクションに求められるライン「フィクションライン」というもの。

 こんばんは。最近何かと忙しかったshokaです。

 いろいろと考えているうちに当初記事にと思っていた内容の旬が過ぎてしまいましたので大幅に内容をカット致しまして、今回の記事に致します。
 ごちゃごちゃした前書きはさっさと切り上げまして、本題に入りましょう。

 まずはタイトルに書いた「フィクションライン」という単語について軽く説明させいただきます。
 フィクションラインとは、脚本家・映画監督およびスクリプトドクターである三宅隆太氏がラジオ番組(TBSラジオ『ウィークエンドシャッフル』2009年8月9日放送)内で取り上げられた三宅氏による造語であり、私は

「リアリティの水準」とも言い換えられるようなものであり、フィクションラインが低いほど現実と地続きであると認識できる。

というように捉えています。
 もう少し詳しく述べれば、フィクションラインとは現実に存在している常識が通用する世界なのかどうか、どこまで現実的な描写がおこなわれるべきであるのか、というような水準であって、作品内の描写により暗黙的に享受者の裡に設定されるものではないかと思っています。
 私はそのラインを超越した描写・演出が見られると無視できない違和感を覚えることが多いです。

 また、フィクションラインは様々な要素によって形成されるもののようです。例えば番組内では心霊ホラーにおけるフィクションラインの重要性に触れ、演出や撮影法においても幽霊との遭遇まではあまり突飛なことはしない、言わばフィクションラインは下げておくように注意をするべきであるというニュアンスのことが話されていました。
 これは制作側の意識的誘導によって無意識的に享受側に設定させる、という技術の話だと理解しています。

(長いので続く──

──続き)



 さて、フィクションラインについて様々考えるうちにひとつの似たようなラインの概念を自分ルールで定義する必要が出てきました。それは名付けるならば「デフォルメライン」というようなもので、作品内描写のデフォルメ加減を示すものです。
 これは、どの程度までデフォルメされた描写を用いることが許されるかという、作品のテイストを決めるものであると考えられます。
 言い換えるならば作品全体を通して求められる描写の厳密さの水準であり、描写の信憑性を司る概念です。キャラクターの言動や演出によって、フィクションラインと同様に暗黙的に享受者の裡に設定されるものというイメージにより、対応させて「〜ライン」という単語を据えました。
 そしてやはりこのラインもフィクションラインと同様に、制作側が意図して設定するのであれば作品の演出上守っていかなければならない制約が発生する、謂わば「超えてはいけないライン」であると思うのです。

 具体的なお話をしないとどうにも理解しづらいように思えますので、喩え話で具体例を挙げますと。
 ギャグ作品において、殴られるなどした人がぽーんと数メートル以上飛ばされて、壁に激突して穴が開く、という描写があったとします。するとその事実はそのとき限りの認識をされてしまうわけです。つまり直後に何事もなかったかのように立ち上がって元気に会話に参加をしても壁に穴が開くほどの衝撃を受けたという描写は殴られたという事実を誇張(デフォルメ)したにすぎず、受け手は「殴られた」という事実のみを捉えて話を追うからだと思われます。
 フィクションの作品においてそのようなデフォルメを用いた演出に慣れているために、無意識のうちにそういうことが可能となるわけです。そして、そのような無意識のうちに設定される同意がフィクションラインであり、デフォルメラインであると言えましょう。
 ちなみにこの例ではデフォルメラインが高く、個々の描写の持つ信憑性が薄い印象を受ける作品ということになります。いちいち起こることを本気にしない、ということです。

 少しお話を変えまして、そのようなデフォルメラインを考えるに至った直接の描写のお話をしておきましょう。すなわち「フィクションラインの低いと思っていた作品内で急に認められた私の持つ常識からはかけ離れた言動」とかいうものです。
 フィクションラインは低い、すなわちこの世界にもしかしたらありそうな世界観設定だったのにもかかわらず、急にその水準にそぐわない言動をしだすキャラクターたち。それを見て私はフィクションラインとはまた違う、ギャグ作品なのか真面目な作品なのかを司るラインがあるのだな、と直観したのです(スピリチュアル()体験)。
 そして、以下のようなお話もそのときに考えました。

 特に精神活動全般におきましては、創作物内でも堅固に保存されているべきものだと無意識に考えているようで、おかしな言動を伴う描写が挿入されることはデフォルメラインの上昇に大きく寄与するように思います。これは享受者がニュートラルな状況で作品内に流れる常識は現実のそれと相違無いと考えることによって生じる現象であることが推測されます。
 さらに言えばこのことは人間の生得している能力的には極めて自然で、そもそも創作内のキャラクターを含めた他者を理解するためには他者の思考をシミュレーションする能力が必要不可欠であるという、所謂心理学でいうところの「共感」の話になるのだと思います。共感は感情移入の足掛かりにもなります。
 しかしながら、当然共感のできないようなキャラクターには感情移入ができず、ひいては作品全体の持つ信憑性を著しく損なうことになります。

 そういうわけで、私の当初持っていためだかボックスに対する印象は大きな修正を伴い、興味深くも苦痛を伴うアニメとなってしまったのでした。あ、具体的な作品名言ってしまった。


 さて、長くなって疲れてしまったので、最後にそのフィクションラインとデフォルメラインの関係について書いておきます。

 デフォルメラインの考えをまとめるに当たり、最初酷く混乱したのを覚えています。それは、今になって考えてみると当然のことで、なにしろふたつのラインは連動するらしいのですから本当にややこしいお話です。
 連動というのはデフォルメラインが上がってしまうとフィクションラインもつられて上がってしまうということです。

 フィクションラインの低い、すなわちストーリー重視のギャグ作品ではないお話に、デフォルメラインを上げてしまうようなおかしな描写、例えば実写では奇行の目立つ登場人物によるドタバタした展開が入ると途端に作品全体のフィクションラインが上がる、すなわち「現実にはこんな奴いないだろ」という印象が強くなり、ストーリー展開に説得力が生じづらいことになりかねないのではないか。という話です。

 意味がぶれてしまいますが、もう少し簡単に抽象的な対比をしますと

・フィクションライン(低⇔高として)
ノン・フィクション⇔フィクション
常識的にあり得る⇔あり得ない
この世のどこか⇔別世界のできごと

・デフォルメライン
シリアス⇔ギャグ
描写の厳密さ⇔適当さ
描写の信憑性高い⇔低い

とでも表現いたしましょうか。
 この表現は必ずしも正鵠を射ているものではないですが、理解の助けになるかな……とは思います。
 そして殊、精神的な事象に関しましては、非常識なことが起こるとデフォルメラインの上昇に大きく寄与することになりますよ、と。そういうまとめをしておきましょう。


 そんなこんなで、今日の私は自分でもよくまとまっていない話をしてしまいました……そのうち、修正が加えられる可能性は多々あります。

『桐島、部活やめるってよ』を観てきました。

 こんばんは。
 早速……でもないですが、書くべきことを見つけたので書いておこうと思いましたshokaです。

 前回の投稿では書きませんでしたが、最近の私は二次元に限らず、劇場上映したものを含めた映像作品全般(主にレンタルショップでDVD媒体で借りられるもの)にも同じ創作物として嗜好するようになりました。
 特にはホラー色の強いものを好むのですが、俗に言う"身内"で好評であったということで今回はタイトルに示しましたように『桐島、部活やめるってよ』について少し思うことをつらつらと書いておこうと思いました。


 当初、タイトルをただ単に聞いた時点では何ともふざけた名前の作品だ……こんなの絶対ダメでしょう。ぐらいに考えていたのですが、公開後日数が経つにつれて、何かと好評をよく耳にするようになりました。しかし、私は少し前に『おおかみこどもの雨と雪』と『トガニ 幼き瞳の告発』という自身の中でも相当の高評価を下せるような素晴らしい作品を立て続けに観たために、少々食傷気味だったということもありまして、気が付けば多くの劇場で公開が終了してしまっていました。

 ところが、なんと活動圏内の劇場で11月3日(日付で言うと昨日ですね)から上映を開始するということを知り、またその劇場での上映初日には監督やプロデューサーを招いてトークショーをおこなうということで、折角なら……と、この時期になってようやく初鑑賞したわけでした。

早稲田松竹(http://www.wasedashochiku.co.jp/)で11/9まで「早稲田松竹、桐島とサニーやるってよ」と題して2本立てで上映されているものです。


 さて、感想ですが……。
 一言で言えば、大変素晴らしかったです。トークショーを含めて素晴らしかったと思います。聴けて本当に良かった!

 ただスケジュールの都合上、トークショーの前の回の上映には間に合わなかったので、ほぼ事前知識がないままに臨むことになってしまったことは悔やまれました。
 ……はい。今になってかなり濃密な後悔が立ち上ってきました。これは……仕方がない、仕方のなかったことです。



 まだ何も内容に関して言えていませんが、言いたいことは多すぎて中身のことをすべて話すのは困難です。ですが、忘れないうちにできるだけ残しておきたいと思います。

 以下はネタバレを多分に含みますので追記にて。
(続く──
──続き)

 とてもとても文章にまとめられないので、思い出せる限り考えたことを羅列していく形を取らせていただきます。時折文章らしい文章になることもあるかもしれませんが。


・開幕して割とすぐにトラウマを抉りに来るようなサッカーのシーン。交互に"使える"人間から選出する形式のチーム分けとかそれ以前に集団でおこなう球技というものがどうしても私自身苦手であったことが大きく、ここで早々にHPを削られノスタルジーを受ける作品なのかどうかなどの憶測やら何やらが跡形もなく吹き飛んだ。要するに掴みは素晴らしかった。

・主人公前田の友人である武文君は本当に良いキャラクターだと思う。私みたいなのが一番感情移入しやすいかもしれない存在。

・予告が非常によくできているが、それを観て怒りの感情を覚えた人はこの作品をより楽しめるのではないかと思う。

・全体の構成はトランプゲームの大貧民における「下剋上ルール適用」のようなもの。

・無駄を極力省いた演出・描写(?)になっているために登場人物の行動原理が非常によく分かり、ストレスが少ない。説明もよくされている。

・台詞による説明ではなく、映画の武器たる"画"やその流れ、登場人物の視線描写などの駆使によって適切(必要以上に暗示的になりすぎず、素直に捉えられるレベルの適切さ)な行間を豊富に蓄え、違和感なくストーリーを展開させている。

・学校生活におけるヒエラルキー構造の妙。運動系の部活が上で文化系が下、その中でも結果を出せるかでさらに上下が。中心的なメンバー(見目よろしい)とそれに蔑まれる主人公たち(所謂オタクグループのみならず、中心グループと仲良しごっこができないものたち全般か?)。

・舞台設定の巧みさ。地方の県立進学校(共学)で、遊べるところが様々な施設が一体となったショッピングモールぐらいであろうことなど。

・サックスを吹くことと唇を合わせることの対比。

・野球部の部長の結果の望めない努力を徒労と捉えないという悟りと、それの有無が勝敗を分けるということ。(宏樹が出会ったのが部長→前田だったということの意味)

・唯一ケチを付けるとすれば、そんな何でもできちゃう勝ち組だった宏樹が下剋上モードに陥って泣きまでした(報いの描写)ことで、遠くない未来に誰も勝てないレベルの勝ち組(桐島と同レベルの立ち位置?)になれてしまうのであろうことが予期されるエンディングとなっていたこと。折角のカタルシスが……。


 あとは、トークショーでどなたかが仰っていた

「かすみみたいな『周りすべてと等距離を保つような八方美人的な態度が少しできるからって自分はうまく立ち回れているのだと無意識にでも驕っている』ような奴は絶対に近い将来に大きな失敗をする。例えば大学のサークルなんかで……(意味深)」

というようなお話を聴き、大いに納得をしましたことは、ここに特筆しておきます。

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shoka
大作戦企画部屋の一応管理人。
犬で眼鏡じゃない人。

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